沖縄を拠点に世界中で活動する三線ガール稲嶺幸乃

三線がーる稲嶺幸乃さんインタビュー!三線がーる誕生秘話!

日本の沖縄県を拠点として日本国内や海外でも活躍する『三線がーるの稲嶺幸乃』さんのインタビューをさせて頂けることになりまして、早速本人にインタビューさせてもらいました。

しかも場所はフィリピンのマニラ!本人も海外も視野に入れた活動をしている人物でもあります。インタビューの中でも出てきますが、フィリピンのマニラでの演奏で3回目の海外演奏だそうです。

沖縄を拠点に世界中で活動する三線ガール稲嶺幸乃

それでは沖縄の『三線がーる』こと稲嶺幸乃さんのインタビュー記事をどうぞ。(長いのとテーマが別れたので2回に分けてお届けいたします)

沖縄出身の『三線がーる』稲嶺幸乃さん

マニラにてご紹介頂きまして「三線がーる」として活動している稲嶺幸乃さんをインタビューさせてもらえました。

今日はマニラのマカティで日本人のシンガーさんをインタビューさせて頂きます。お名前からよろしいですか?

「三線がーる」の稲嶺幸乃と言います。

「三線がーる」いいっすね!あ、決して野球の方の三振ではありません。(笑)三線って三に線ですよね。(昨日一度会いましたが)初めましてなんですけど、どういう活動をしているんですか?

沖縄の三線という楽器を使ってライブ活動をさせてもらっています。基本は沖縄を拠点にしてますが、縁があれば日本全国や海外にも三線を持っていって演奏させてもらってます。

へー!世界も視野に!凄いですね〜。その「三線がーる」の活動はもうどれくらいやってるんですか?

三線を演奏すること自体は小学校4年生からやってまして、もう15年くらいですね。「三線がーる」として名乗り活動を始めたのは2016年8月8日からなのでもうすぐ3年になりますね。

沖縄を拠点に世界中で活動する三線ガール稲嶺幸乃ライブ2

15年もやってるって凄いですね!まだ20代前半なのに既に人生の半分以上三線をしていることになりますね。三線まみれ。(笑)

でも私がやってた教室はめっちゃ緩かったので。沖縄では三線を習ってる人は多くて、その人たちはガッツリ三線教室って感じのところに通ってました。〜研究所って沖縄にめっちゃあって、そこに月謝とか払って学んでます。ライブというより公演って感じで先輩とか同世代とか多くの人がやってます。

〜研究所ってのは沖縄の楽器を広めるための研究所のことですか?聞き慣れないですね。

私は研究所に入ってなかったので、詳しくはわからないんですけど、クラブ(部活)みたいな感じですね。〜研究所という名のクラブみたいなイメージです。みんなで集まって、先生がいて、先生から三線を学んでみたいな。

活動を始めたのは3年ほど前からってことですけど、活動を始めてから今まで順調ですか?

周りの皆さんのサポートがあるおかげて最近は三線だけで生活できてます。でも最初の頃はライブとか全然なかったし、バイトとかしながら活動を続けてました。

Youtubeとかで特に力を入れて配信しているわけでなさそうですけど、どうやって人が幸乃さんを知ってくれますか?

私の場合は、周りの人が助けてくれたお陰です。周りの人が超いい人ばかりで、困ったら絶対助けてくれる。本当に感謝してます。

人から人へ紹介されていくって本物ですね。すごいなぁ〜。

呼んで頂いたら駆けつけるので、楽しく旅しながら活動してるって感じですよ。

幸乃さんは基本的に沖縄県を拠点としてますが、既に日本全国でオファーを頂ける「三線がーる」として活動します。

また今回、インタビューをさせてもらった場所はフィリピンのマニラなんですけども、どうして「三線がーる」がフィリピンのマニラで演奏することになったのか?というところも訪ねてみました。

『三線がーる稲嶺幸乃』になるまで

今ではフィリピンのマニラでも「三線がーる」として演奏のオファーを頂く幸乃さんですが、これまでの人生はどんなものだったのか、訪ねてみました。

小学校の時から三線を弾いているとのことですけど、初めから『三線がーる』(三線アーティスト)になるぞ!と思って活動してたんですか?

小学校の時に習った三線教室は超ゆるゆるの教室だったんですよ。無料の地域の子供達や大人達みんなでレッスンしてみたいなゆる〜い流れから三線に触れ始めました。その時は別にアーティストになると思ってなかった。

そこからどうなって、今があるんですか?

その教室で恩師に出会ってから三線に対する活動に変化がありました。恩師と出会ってからは、先生とデイサービス訪問とか地域のイベントに出させてもらったり活動させてもらえました。だから他の研究所とはちょっと違う動きをしてました。でもまだ趣味という感じで動いてたんですけど。

何か続きがありそうな感じですね。

先生が高校の時に亡くなって4年間くらい三線を弾いてなかったんです。たまに弾こうと思って、他の教室とか行っても、すぐに辞めてしまった。

三線を弾かない時代があったんですね。意外!けど、そこから「三線がーる」になるまでがまた気になりますね〜。

三線ガール稲嶺幸乃4

比較するものがあれですけど、一般的な唄者とは道筋が違いました。多くの唄者は芸大に行って三線専攻だったりとか、逆に幼少期からずっと三線をやっててたりとか。

三線のコミュニティとか沖縄の芸術のコミュニティとかすっごい強くて。超ガッチリ。縦も横も。悪いことできない。直ぐに噂が回る、悪いことも良いことも直ぐに回る。それは三線に限らず沖縄県でも言えるんですけど、もっと絞っていくとそんなコミュニティになってて。いい意味で、すごく絆が強くて、リンクし合えてたりしてたんですけど。

私はそこにあまり関わってなかったし、ちょっと遠い存在だったんですよ。私は沖縄で地盤を固めて歩んでいったというより、県外とか海外にバーンって自ら旅するような感覚で三線片手に出ちゃったタイプ。

伝統があるとどうしても既存のコミュニティーに力が偏りすぎますからね。それは三線だけに限らず世の中のいろんなものに当てはまりますね。

「三線がーる」として今は日本全国や海外でも活動している幸乃さんですが、三線を弾かない時代があったとは驚きでした。そんなブランクを越えて再び音楽の世界に戻ったのはどんな理由なのか聞いてみました。

三線を再開したキッカケはピースボート

しばらく三線を弾かなかったみたいですけど、弾くことを諦めなかったんでしょ。どこから三線を弾き始め直したんですか?

弾かなくなってしばらくして、世界一周のピースボートに4年前に乗ったのがキッカケで三線を再開しました。けど最初は三線を弾くためにピースボートに乗ったわけでなくて。ピースボートは旅だし、自分のアイデンティティとして三線を持っていって船上で三線を弾いてたんです。そこから本当にビックリするくらいご縁を頂いて。ピースボートからはご縁を他人が持ってきてくれた感じですよね。

それ凄いですね。自分の意思とは別の流れ。

表現するとスーッと流れる水のように人生が進む感じですよね。逆上するわけでなく行った先に大きな海があった感じです。

そういうようになれたのって今まで直感を信じて生きてきたからですかね?

それ、そうかもです。直感で生きるってことは三線に限らず大切にしてます。三線してない中学高校の時も物事の決断は直感で決めてました。

なるほど。それでピースボートを終えて日本に戻ってきてからはどうしたんですか?

ピースボートを終えてからは大学に通ってたんですけど、ここでもご縁があって。大学を休学して三線を持ってその足で大阪に住んだんですよ。県外とか海外とかの人から「いいね!」って言われてそのまま。

三線ガール稲嶺幸乃2

拠点を沖縄から大阪へ移しんたんですね。

大阪で活動するようになりました。大阪で活動させてもらってたお店は沖縄料理じゃなくて、個人経営のお店で、そこの仲間のコミュニティがすごく面白くて。飲食の仲間とか、すごく仲間意識が強くて。「こういうオモロイやつがいるからって繋げるよ」と言って紹介してくれたり、イベントに呼んでもらったりとかして。沖縄県よりまず大阪で「三線がーる」としての私が構築された。

大阪で活動してた時に『三線がーる稲嶺幸乃』が誕生した?

その時もたくさん演奏させてもらってたんですけど、まだ「三線がーる」とは名乗ってなかったです。大阪に住んでる時から東京に行ったり色々な場所で三線を弾かせてもらってました。そこから沖縄に戻ったんです。

大阪から沖縄へ拠点を戻したんですね。なぜですか?

ピースボートもそうですけど、大阪へ行った時も大学を休学してたので、大学を復学する為に沖縄へ戻りました。けど、なぜか縁がすごくて、まだ「三線がーる」って名乗ってない時なのに沖縄に戻って大学を復学したタイミングで、台湾でライブの依頼があって。いろんなご縁で「私が行きます!」って返事したら本当に台湾でライブさせてもらいました。

おぉ!ここで海外デビューですか!

そのあと、愛知県の名古屋でもライブをさせてもらったんですけど、それが初めての投げ銭ライブで、チップもらったんです。初めて三線を弾いてお金をもらったんですよ。

それまでは全部自費で行ってたんですけど。今までは居酒屋で三線をチョロってやってただけだったので感覚が変わりました。これが2016年4月ですね。

初めてお金を頂いて「うわー!すげー!」ってなって、そっから東京とか大阪とかを月1ペースで行くようになったんですよ。

「三線がーる」としての活動が本格的になってきたんですね。

それで全国色々行くようになったので、沖縄の大学に行かなくなったんですよ。大学をもう一回休学しました。(笑)

そっから私がお世話になってる大好きな大阪の居酒屋のオーナーに会い、2016年8月8日に言われたのが「幸乃、お前やってること既にアーティストだぞ」って言われて。「お前、依頼として呼ばれてるから」って言ってもらえて。

私は最初なるつもりなかったんですよ、別に元々は。でも色んな助言を言ってもらえたら楽しくなってきて。私も楽しいし、皆さんからもサポートしてくれて、プッシュアップしてもらったお陰で「三線がーる」になろうと決めたのが2016年です!

元々なるつもりはなかったのに人が呼んでるから必然的になったって凄いですね。漫画の主人公みたい。

三線ガール稲嶺幸乃3

だから三線を弾いてますけど、沖縄ってよりは、私の場合まずは外(大阪や東京)から活動を始めたパターンですね。別に攻めたってか言われたら攻めたって感覚はなくて「好きだから」「楽しそうだから」って理由です。

それから「三線がーる」と名乗り沖縄に戻って活動を開始しました。去年(2018年)の6月に素敵なギタリストの方に出会って、この方が沖縄でも県外でも音楽ですごく顔が広くて、ぜひサポートしたいとお声かけ頂いて。私はすごいありがたくて、たまに一緒にやらしてもらったりしてる。

県外の方達からも、このギタリストの方がいたから、結構周知してもらってます。「三線がーる、どこから来たの?」って。沖縄のコミュニティにいなかったもんで、その方が顔が広いもので、私は結構いろんなところにいるって感じですね。

なるほど。今後はどうするつもりですか?

私、別にゴールがなくて。でもいくつかやりたいと思ってることはあります。それをやるタイミングがきたら始めるだろうし、一緒にやってくれるパートナーがいたら、一緒にやろう!ゴー!ゴー!みたいな。(笑)
楽しみ!楽しみ!🎵

終始明るい幸乃さんインタビューでした。これまだ半分も紹介してませんが、ここまでで一旦、終わりたいと思います。『三線がーる稲嶺幸乃誕生秘話』の紹介でした。続きは別記事にて紹介します。

こちらが続編の記事になります。素晴らしい沖縄の諺を教えていただきました。

沖縄の諺!命薬(ヌチグスイ)と耳薬(ミミグスイ)を教えてもらった

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現在までに72ヶ国旅した旅人。国際線100本以上搭乗経験あり。格安航空券取得、サバイバル、現地人コミュニティ参加が得意中の得意。ママチャリで北米大陸横断、国際交流パーティー主催、教育ゲームファシリテーター、ITコンサルタント。企業・個人向け英会話講師、IT講師として活動中。